まとめに代えて(3) 連載第39回
この連載では、米国における患者の権利を擁護するシステムが、日本と比べて優れた側面を持っている事を強調してきました。37・38回で述べたように医療制度として根本的には大きな問題を持ちつつも、少なくとも医療現場に辿りついた「患者」に対して、倫理的な側面からアプローチする仕組みを持っている事については学ぶべき点があると思います。
そして、この考えが、「公民権運動」から始まる黒人など権利を持たない人々が「権利」を回復する運動や、「ヒッピー」に代表される自分自身の権利や生き方を主張する運動や文化の中で形作られたものであることが、様々な人々から異口同音に語られたことはとても印象的でした。
また、27~29回で触れた、(生きる権利も死ぬ権利も含めた)患者の権利に関する3つの事件の中で、その都度法的整備が行われ、少しずつ前進して来た事も、米国の歴史をこれまでとは異なった角度から見る上で、新しい発見であったと言えます。
米国社会における「民主主義」や「平等」という概念は、 2005年のミシシッピー州の水害で明らかになったように様々な限界を持っています。その一方で、偏った政治や社会のあり方に対して、バランスのとれた社会に変えていこうという「揺り戻し」ともいうべき力を米国社会がもっている事を感じる時があります。医療倫理や患者の権利をめぐる運動も、そういった米国社会のもつ健全な側面の現れでもあると言えると思います。
また、35回で市原さんが触れているように、米国の訴訟社会の中での「権利」の主張、という側面がある事も否定できません。米国映画の中で、病院内で弁護士が「病院に不満はありませんか」と聞いて回るシーンは、それほど珍しいものではありません。そういった「訴訟対策」としての「権利擁護」という側面もまた真実だと思います。
米国医療制度の欠陥、訴訟社会の中での自衛策といった側面に目をやりながらも、「人権」を重視し患者の権利を尊重する医療を実践する上で、今私たちに何が求められているのかを考えていく事が重要だと思います。
今回インタビューした方の多くは看護師でした。医療における看護師の役割とは何か?という事を考える上でも、重要なポイントだと思います。患者の権利を守る事が看護師の役割であり、この活動を保証する仕組み作りこそが今求められる事ではないか、と感じました。
(次回が最終回です)